



目的は良質な介護と今後の日本の行方という大きな課題でした。
設立した 棟朝 淳州(むねとも あつくに)は当時漸く騒がれ始めた介護という
言葉の先端を行く シルバーマーク振興会やその他で多くの発言をして来ました。
当時から在宅における介護の無意味さ等を語ってきましたが、結論として 8名を
1名の介護人が効率よく見られる ケア 8 (エイト)という 写真下の構想を展開
湯河原にその実験施設の建設を始めるに至った。
今になって考えてみれば、現在のグループホーム(9室)の基本だったのかも知れ
ない。 しかし、 その計画を断念。 工事半ばで方向を変えて海外への方向を模索
し始めた。 その理由は限りなく拡大する経費を10年先にどうするのか?
特に退職金を含めた人件費という問題の解決策が無かったからだ。
それは、介護保険というものがある現在
も原理としては同じであり、今でも日本の
介護に懐疑的な理由はこの時のあらゆる
試算の結果でり、単なる憶測では無い。
2000年には日本人専用という看板を下ろした。理由はフィリピンにおいて、
日本人の感性のみを重視すれば、自ずからコストを上げることになる。
全てはフィリピンマニラにおける常識を機軸にして、世界に適応する価格と
サービスを目的とした。 それに日本の高齢化は20年後には解決する。
それ以降は自ずからフィリピン自身を含めその他の国を対象にする事になる。
その後のフィリピン退職庁を含めた戦略はここをクリック


マタブンカイで
ロングステイ財団
の山内専務理事
(当時)

特養で実習している当社フィリピン人社員
この時点で現在の生涯入居金の
原点が出来上がった。







その後の状況





フィリピンもエラップ大統領
更迭の後アロヨ大統領下
で初めてのPRA長官が
ロングステイ財団との提携
を決めて、ロングステイ財
団の山内専務の肝いりも
あり、当社もスービックや
タガイタイ・バタンガスに
支店・提携箇所を拡大した。






1993年、介護施設運営を目指すにしても、マニラにおける仕事の経験
を積む必要がある。 入居者が入り商売に失敗したのでは仕方が無い。
特に日本人専用という観点から、日本レストランの運営からスタートした。
どの程度フィリピン人が日本文化を理解出来るかと
懐石料理店からスタートしたが、その後マンダリン・
オリエンタルホテルや他の日系工場の社員食堂や
ケータリング等も幅広く手がけるようになり、経緯上
縫製工場やその他にも
進出したが、2003年の
リトル東京内の甘味店を
最後に全面撤収した。
理由は競争相手が増えた
上にペソが下がり仕入れが
増大したからです。
1994年、本格的に介護施設建設に乗り出したが、最初はオルチィガスにあるビル用地
を購入18階建てのビル構想(図)を打ち出したが、当時バブルでビル用地が高騰して、
当初予算以上の販売価格になったので断念して、用地を売約した。
しかし、この当時から都市型高層ビル構想はあった。
その後、現在のカブヤオの土地(当時は荒野)を購入
ローズプリンセスホームを建て始めた。
しかし、最初に建てた建物は見事に失敗。取り壊した。


1990年NHKのドキュメンタリー番組 プライム11で フィリピンで退職生活
特に介護をフィリピン人にお願いしている日本人を特集。 父も叔母もその
番組に出演した。 すでにこの時期にはこうした考え方が世間で話題に
成ってきていた。

その年にマニラに居を構えて、まずは痴呆で困っていた叔母を連れて来て住居内での介護を始めた。
翌年には、脳梗塞でリハビリ中の父を迎え入れていた。
介護の効率を上げると言う為にはある意味でのコンピ
ュータ化が必要である。 その研究成果が既に日本
での介護を断念していた1990年に完成した。 それ
以後この研究成果を活用はしているが、実際に日の目
を見なかったソフトです。
しかし、最近多くのソフトが出
されているが、どのソフトも
介護保険の請求に力が注が
れていて、介護の効率化には
成らないのが残念です。












































