一時の興味や興奮を与えてもらう場所ではなく、
           人生最後まで限られた予算で身を寄せられる場所、
           それがフィリピンです。

                                     ジェロントロジー研究所
                                       代表 棟 朝 淳 州

 

    ジェロントロジー研究所はフィリピンの歴史上最初の医療介護付有料老人ホームを1996年、
   マニラ市郊外のカブヤオに作りました。 そして今、フィリピンが医療介護までも含めた世界最大
   の退職者パラダイスになると確信しています。

   1985年までは私がこんな仕事を始め、こんな人生になるとは夢にも思いませんでした。
   ましてフィリピンに住むなんて・・・

   それまでは東京赤坂や銀座がメインで全国を飛び回る仕事をしていましたが、フィリピンパブには
   縁が無く、地図の上にフィリピンと言う国があることすら記憶に無い生活をしていました。

   それが今は「人生最後まで身を寄せられる場所、それがフィリピンです。」と言い切れるまでに
   なった事は自分自身でも滑稽だとしか言いようがありません。

   私は父が創業した、真珠・宝石の卸会社と小売店を手伝っておりました。しかし一般的な二代目
   同様に何か自分が創業したものを持ちたいと服飾業にも手を出しデザイナー協会の一員にもなり、
   時代背景もあり総合的に順調に事業は拡大して小売支店数5店舗、卸先も全国に280社以上
   になっており、業界でも中堅以上の地位を維持しておりました。

   その事もあり銀座や地元赤坂では役員になり「赤坂踊りや祭り」の実行副委員長などもやっており、
   こんな仕事やフィリピンとは縁遠い生活をしていました。

   それが何故・・・。 6人兄弟の末っ子であった父の所には前から身寄りの無い一回り上の父の姉
   が居たのですがその姉の痴呆に始まり、そして父の突然の脳梗塞。そしてその負担は一人っ子で
   あった私に全て圧し掛かって来たのです。当時私の家族も「お受験」などの時期でもあり妻にも負担
   を掛けさせることも出来ず。その父の姉は一人にすると直ぐに外に飛び出して行くので、何度警察に
   捜索願を出したことか・・父が病院から戻ることもありお手伝いさんを2人雇い24時間体制を月額60万 
   円++で確保しました。

  しかしバブル時代といえ月額のコストは、とてもこれを生涯払い続けることは不可能だと確信してい
  たのです。こうして初めて「介護」という言葉に出会い、そして介護施設や介護システムというものを
  リサーチして、その難しさに直面したのです。

   こうしている内にこの「ジェロントロジー」という言葉に行き当ったのです。
  ジェロントロジーとは社会学では高齢化社会の研究、医学では老化の抑止という意味です。
  この学問、特に社会学的な意味で「私の人生は変わったのです。」

   それは単純な計算でした。以下のように日本の人口統計を紐解き高齢化の状況を理解したのです。

   私も商売をしていて、特に女性の購買動向は微妙で、女性も60歳になるとそれまで先を争ってまで
   もあった購買意欲は減退することは判っていました。それが今後日本では高齢化がこんなに増大する
   とは・・バブル時代を快調に飛ばしてきた私には将来に対する不安など一切無かったのですが、この時  
   人生で最初の「不安」を感じたのです。そしてその不安は更に増大して行ったのです。   
   将来会社のコストは確実に増大する。父が創業して同時期に退職する社員が多いが、その退職金は
   どうすれば良いのか? 
   ちょうどその時に消費はこの高齢化で減速する。競争相手は増えているので利幅は必ず下
  がる。そうなれば在庫の増加が必要で新たな資金が必要な上にコスト高・・退職金・・

  「バブル崩壊」これがジェロントロジーという言葉によって得られた結論だったのです。

  今なら怪我も無く辞められる。社員にも退職金を支払える。商権を条件にすれば社員の再雇用先や
  在庫の整理も出来ると決断をしたのはそれから間もなくのことで、決断して業界第二位の会社に商権
  と社員や店舗を譲り、私一人が会社を出たのは4ヵ月後の事でした。

   もともと社員には失業保険がありますが、オーナーには無く。自分の財産担保に借金をして社員に
   給与を払っていますが、累進の所得税が高い日本では社員と社長(雇われ社長は良いが)の給与
   格差はあまり無い不平等な構造になっています。自分ではあまり後悔はしなかったのですが、ちま
   たでは親の起こした事業をほおり出すとは「気が狂ったのでは・・」という酷評を浴びせられました。
   しかし、5年後こうした方々は口をそろえて「君はいい時に辞めたね」という評価に代わり、12年後 
   業界第二位の商権と社員をお願いした会社が倒産する頃には論評する方々も居なくなっていました。

   会社を一人で出た私は最初何をやるか判らずに「あせり」もあったのですが、結局毎月支払っている
   60万円++の叔母と父の介護費用に対する矛盾などもあり、自分で最高の介護が出来る施設を
   作ろうとこの「ジェロントロジー研究所」を設立し、神奈川県湯河原町に老人介護センター「ケア8」の
   建設と新しい運営システムに着手し始めたのです。

   「ケア8」とは8名の介護が必要な方に必ず1名の介護人が効率よく付き添う為のシステムを基準に
   施設(建物)からコンピュータシステムまで効率よく配置した総合プランでした。

   しかし、日本での介護の問題は施設の費用やシステムではなく「人」でした。

   日本の人件費は例え月額20万円の給与でも、社会保険費、医療保険、交通費、その他やボーナス、
   そして退職金まで計算するとどうしても月額40万円近くになります。介護は24時間ですから8時間
   労働で3交代、休暇も考えると1シフト24時間を確保するのに4名が必要になります。1シフトは4
   で一人40万円ですから160万円が必要です。「ケア8」では8名の患者を看るのですから160万円÷
   8名=20万円月額の直接人件費が必要で、その他本部経費、食事に掛かる費用、施設の償却、
   電気水道固定資産税等々を加算すると原価ベースで1名の患者のコストは45万円、それに利益を
   乗せた請求額は月額55万円となってしまいます。当時はまだバブル時代、信託銀行と組んだこの
   アイデアも1患者あたり1億円の信託の利回りと年金を組み合わせればこの経費も出せるという
   計算でしたが、1988年急速の金利の低下が始まり認可を受け建設途上のこの計画を断念せざる
   を得ない状況になり、協議の上中止し、しかしまだバブル後期だったので購入していた余剰地を
   売却して整理を行った経緯がありました。

   でも私もこの2年間でのこの事業に対する考察は500冊を超える図書の山(現在、学校法人ローズ
   プリンセスホームトレーニングセンター図書室に保管)や「ヘルパーさん」と言う当時では日本で最初
   の介護用コンピュータソフトの開発(新聞記事)などを行っており、このままこの「理想の介護」の
   論理を無駄にしたくないという意思と、しかし日本では人件費や認可その他の制約で難しいとの判断
   から、日本以外での場所を求めて海外に目を向けて行ったのです。

   海外と言っても最初はシルバーコロンビア計画の名残もありヨーロッパ、カナダ、オーストラリアに目
   が行き、最初はオーストラリアのシドニーに実験のために会社を設立し様子を見始めました。当然
   皆様は私が仕事も無く収入が無いのにどうしてそんな生活が出来るのかと疑問に思われると思い
   ますが、勿論以前の仕事を辞めた時の多少の資金とこのジェロントロジーという言葉との出会いから
   「バブルの崩壊」を予想していた私は手持ちの固定資産の半数を売却して資金化していたのです。
   それを当時日本も5.6%の金利で回していて1988年の金利の2.8%への急落を機にこのオースト
   ラリアに資金の一部を移して当時の15.5%の利回りで運用していたのです。そして1年間オースト
   ラリアの経済情勢、人件費、金融その他を研究していたのですが、結局白欧社会に措ける人種の
   壁や人口不足から来る人件費問題、そして活力の無い経済(物資の不足)という点でオーストラリア
   を断念、香港に会社を設立し広くアジアを対象に研究を開始しました。勿論オーストラリアに拠点を
   置いている間にインドネシア・マレーシア・タイ。そしてフィリピンも調査を開始していました。そして
   香港に拠点を移し資金を移した後に、オーストラリアドルの下落(114円から70円台まで)と金利の
   低下という事態があり幸運にも難を逃れることが出来ました。

   1988年香港を拠点にマニラを調査、当時マニラは1日の内の半分が停電という状況でマルコス政権
   から移管をしたばかりのアキノ政権下で必死に状況を改善しようと努力は判るのですがその成果が
   現れないのが現実でした。しかし私はこの国に他の国では感じられない何かを感じてそれが何かな
   のかを知ろうと必死でした。

   その答えは「民主化」でした。他アジアの国ではまだ独裁者や何かの時には一握りの人間によって
   の決定権が温存する中で、例えればインドネシアのスハルト政権やマハヂィール政権、タイの国王
   依存体質、また大きな意味における宗教の自由、一つの宗教に国家が左右されない体質等を今
   この時点で評価すると、マルコス政権を自力で倒し、国民の本当の選挙で当選した大統領を持つ
   唯一の国は実は東南アジアでは最初の国であったのです。

    勿論不慣れな事でもたついている事に日本人や他の国が不安を持つことは当たり前ですが、
   他の国の場合これから民主化騒動を経験し、それから不慣れな事に突入する事を考えればそれ
   よりも良いとの判断でした。その良い例としてその後のインドネシア・スハルト政権崩壊の混乱です。
   フィリピンも色々な事がありましたが、186年以来18年間民主化への熟成度を高めているアジア
   唯一の国で、元々アメリカの法律を採用しているのですから、それを守るか守らないかは別問題と
   して民主化への修正は早いと考えたのです。

   こうしている中、気候や生活コスト、日本からのアクセスの良さ等を考えた上で、2つの候補地を
   考えていました。1つは中国最南端の三亜市とフィリピンのマニラ市とその近郊でした。三亜市は
   中国政府が中国のハワイにしようと熱を入れて開発していた特別区ですが、ベトナム戦争中は
   中国海軍の軍港であり外国人の立ち入りが出来なかった地域です。

   しかし、私が訪れ始めた時には台湾資本や日本資本によるゴルフ場開発やそしてフランスのデザ
   インでの新しい空港計画が進み、海口から全長250kmの高速道路も一部開通して香港からの
   観光客も多く見られるようでした。その後空港や高速道路はオープンし5つ星のホテルも誕生しま
   したが、そこで外国人がそれも長期投資と長期滞在を目的とした事業プランとなるとインフラ(外国
   人が必要とする)も法的整備も何も無いことに気が付いたのです。そして結局マニラに決定した
   経緯がありました。

   1988年にはマニラ・マカチィ市にコンドミニアムを購入して当時痴呆でしたが体はいたって元気な
   父の姉を連れて来てフィリピン退職庁のビザを取得してこのマンションに住みながら看護婦とメイド
   を雇い面倒を看始めたのです。当時、脳梗塞の父はかなり回復していたので月額60万円の日本
   での介護費用を落とすためには仕方ない方法でした。しかしマニラで実際に介護を行うという事は
   こうした問題点を探るために父の姉に申し訳なかったのですが、こうした実験を開始開始したかった
   のも一つにありました。これにより月額60万円の介護費用は月額10万円以下の費用になったの
   です。しかし60万円の1年分は720万円で退職庁のビザ取得の預け金は1年分の介護費用で
   カバー出来るどころか預け金で当時のドル預金の金利は6%ありましたので十分に算盤勘定も
   合ったのです。

   こうしている内に、父も日本を引き上げてマニラに来るという事になり、もう一箇所コンドミニアムを
   購入し、父も退職者ビザを取得してマニラの永住を決めたのです。

   その後私もこの永住ビザを取得し、労働許可を取得し本格的に施設立上げに向かって周辺事業
   を始めたのは1993年の事でした。それまでは1899年のピナツボ火山の爆発や湾岸戦争とかでの
   社会混乱が続いたので、優雅にフィリピンライフを楽しんでいました。しかし私自身あまり日本の方
   とは深いお付き合いが無く、この間に多くのフィリピン人ビジネスマンと知合いになり、フィリピン風の   
   ビジネススタイルや成功例を体得させて貰ったのもその後の大きな経験となったのです。

    1993年当時マニラには現在のように220店以上の日本食レストランが無く食材も見つけるのに
   大変な時代だったので、施設には日本人が来るので当然日本食が必要と言うことから日本食の
   研究のための日本食レストランをマカチィにオープンしました。また介護人を含め多くの人材を要
   する施設運営を想定し、労働省認可の人材派遣会社を設立し人材の資質の研究も開始しました。
   また施設への物流の問題もあるので小さな物流会社も設立し当時漸く進出してきた日系工場への
   備品やユニフォームの納入なども手がけて見ました。

   1994年に本格的な施設立上げを目指し土地の選択を行っていましたが、当時マニラ近郊はイン
   フラの整備が無く、どうしてもマニラ市内それもインフラの高い所ということでマニラ市内のマカチィ
   が新宿なら渋谷のような町、オルチィガスにビル用地を購入して18階建て高度有料老人ホーム
   の建設計画を進めていたのですが、1998年まではマニラは不動産ブームで購入した不動産は見
   る見る高騰してしまいました。私個人としては嬉しい事だったのですが、目指している事業計画から
   は問題が生じたのです。

   目指していた事業目標とは、これから説明するようには当時はここまで深くは考えていなかった
   のですが、事業そのものに対する基本コンセプトが違うという事もあり、結局不動産投資としては
   成功したのですが事業的に問題があると判断して1995年にこの土地は売却したのです。

   ジェロントロジー研究所を立ち上げた1986年から日本の年金は絶対に将来は下がる、そして
   資産の下落があると信じていました。今でこそ現実の数字がその方向性を示していますが当時は
   まだ多くの日本人が景気は回復して、またバブル時代が再現できると信じていました。今になって
   みれば現状の年金問題を考えると現在65歳以上の退職者とこれから退職を向かえる人では「月」
   と「スッポン」ほどの誤差が本当にあるにも拘らず、現在の受益者である65歳以上の人も、そうで
   ない人もあたかも「聖域」の様に議論そのものを避けて来ました。しかし現実問題として選挙の一票
   の格差ではないのですが、同じ条件下で実際に掛け金の多かった(昔は給与そのものが低かった
   ので支払った金額も少ない65歳以上と違い)55歳代の年金受給者の年金支払い時期も大幅に
   引き上げられて、82歳と言う平均寿命で計算しても生涯年金受給金額は65歳以上の方と55歳
   以下の方では4倍の格差が生じるまで来ました。そして今まで支払った年金金額のアンバランス
   まで計算すると6倍以上の格差が確実となった現状、65歳以上の方が20万円貰えるとすれば
   55歳の方は5万円しか貰えないという単純計算です。しかも金額が減っても支給時期が昔と同じで
   55歳からと言うならまだしも65歳以上まで引き上げられ、昔は早期退職しても子会社や関連会社
   に再就職して65歳まで働けるのが当たり前だったのに、今は50歳代の方では再就職口も無く、
   銀行の金利も無く、株も下がり、長い住宅ローンを払い終わった家は半値以下に安くなり、その上
   に売れないという現実が圧し掛かっています。しかし生活費は高く例え1000万円程度の蓄えでは
   月20万円のお金を引き出して細々使っても5年で底をついてしまいます。これでは生きていくこと
   すら出来ませんし、どうにか生き延びても蓄えのお金も無く毎日をカリカリした生活を送ることになり
   ます。そしてこうした状況に陥った100万人とも1,000万人ともいう方々が手持ち金を増やそうと
   資産(不動産)の売却に走ったら・・・不動産相場はどうなるのでしょうか ?元々日本は固定資産
   税や売買税が高すぎて外国人バイヤーには敬遠されている市場ですから安くなったからと言って
   外国人バイヤーが投資するとは思えません。

   そして産業が空洞化する中でオリンピックを終えた中国が台頭し日本円に代わり中国の元が国際
   通貨の地位を高める中で日本円が安くなる日は確実にあるでしょう。これは最悪のシナリオかもしれ
   ませんが確率は決して低くはありません。しかしこうなった場合、今でも当てにならない年金や医療保   
   険制度、介護保険制度は確実に崩壊するのです。

   こうなった場合65歳以上でこうした恩典で介護を受けている方々の経費も50歳代以下の方々の
   負担として圧し掛かってくるのです。

   我々は日本人である誇りと勇気を持って対処しなくてはなりませんが、日本空母が浸水すれば影響
   を受けない乗組員は居ないのです。我々もそろそろ(もっともそんな悠長な時間は無いのですが・・)    
   軸足を日本本土に置くだけではなく他にも置かないと浸水してきた水をまともに受けることになります。

   こうしたことから日本以外のどの場所に最初に軸足を置くかを消去方で考えるとしたら

  1)日本と同じ物価のレベルの国では選ぶ価値が無い。
  2)肌の色の違う国では住みにくい。
  3)宗教的差別の激しい国では住みにくい。
  4)自分のお金を持って行った場合に法的に守られる国で無いと住めない。
  5)気候が良い国が良い
  6)医療水準が高く、医療費の安いところが良い。
  7)旅費があまり高く無い所が良い。
  8)日本人は外国語に弱いが少なくとも「英語」は多少勉強しているので英語圏が良い。
  そしてこれはすこし贅沢かもしれませんが・・・
  9)少なくとも日本に近い感性で暮らせる。
 10)治安が安全な国

  こうした要望を満たすためには先にも言ったように「安く」なくてはならないのです。

   65歳以上の年金の豊かな方はわがままを言えますが、それ以下の方は「安い」という言葉が
   キーワードです。ですから施設の費用も「安く」なくてはならないのです。

   ここに一人の平均的中小企業に勤めるサラリーマンを考えてください。

  55歳で早期退職を言い渡されて2000万円の退職金を貰ったとしましょう。

  子供の学費やその他ローンの残りで退職金の半分は消えてしまいます。もし子供が小さければな
  おさら大変です。25年前購入した3−4000万円の家は今や1000万円前後でしか換金できません。
  これも残念ですが事実です。また再就職先は余程の特殊技能でも無ければ絶望的で、出来ても18万  
  円前後の給与をもらえればラッキーとしか言えません。

  65歳までは年金が無いのですから、1年無収入で暮らしたら幾らのお金が預金通帳から減っていく
  のでしょうか?それに私の昔と違い日本で金利では暮らせないのです。100万円で年300円、
  10億円で年間30万円の金利ですから無いのも同然です。こんな事がもしフィリピンで起きたら
  フィリピン人の半数はフィリピンには居ないでしょう。

  また日本人は年金の55歳の支給時期が65歳になってもよく黙っていますね。何故既得権だと思って
  貰われている方々の年金を半分にしてでも、支給時期は最低60歳であるべきだと主張しないので
  しょうか。それによく大本営発表の65歳以降の支給予想金額を信じられますね。ご存知のように
  日本の財政は火の車です。

  さて、本筋から多少づれたようですが、こうした論拠によりこのオルチィガスの第一候補地は売却し
 1996年に現在のマニラ郊外南に30kmのラグーナ州カブヤオ市に敷地を購入しローズプリンセス
 ホームの建設に着手したのです。

 この地を選んだ理由は以下の要素です。

  1)地価が安く将来広げることが可能な場所
  2)街、高速道路、国道、鉄道に近い場所
  3)将来発展が期待できる場所

  私が選んだこの場所は周りの環境が決して良くない三流の住宅地にあります。
  接している道路も狭く、トライスクル(オートバイ付きサイドカー)も入ってきません。

  地域内はペディーキャブという自転車にサイドカーが付いた乗り物と自家用車以外しか通行しない
  為と国道からは約200m中に入っていることもあり雑音は何もありません。朝は鶏、スヅメと直ぐ先を
  走る電車の汽笛の音で目覚めることが出来ます。フィリピンの道路に近いところでの問題点は
  ジプニーやトライスクルの騒音です。ご存知と思いますがこの騒音は異常です。これをまずは避ける
  ことがこうしたホームの条件だと思います。しかし1室に3交代の介護人が通って来て100室あれば
  300名、1000室あれば3000名が昼夜を問わず通えて、それだけの労働者が調達できる地域で
  なければなりません。介護とは人件費の塊です。その人件費に拘わる経費である交通費や交通の
  アクセスは介護費用と介護人確保に大きな要素となります。 よく介護施設を風光明媚なところに作る
  とか、お屋敷街の高級ビレッジに作る話を良く聞きますが私に言わせれば愚の骨頂です。

  勿論事業ですから資産として持つ物件は将来性(資産価値が上がるところ)の無いところでは事業の
  発展性は無いと思います。また事業がうまく行った時でも拡張性が無いところではせっかくのイニシャル  
  投資が無駄になります。こうしたことを加味して将来を見据えて今の場所に決定したのです。

   さて話は変りますが、なぜローズプリンセスホームと言う名にしたかですが、それは私の忘却の彼方
  とも言える若い時の思い出から来ているのです。

  私が24,5歳の頃だと思います。仕事で毎月のように函館に出張中にそこで知り合った方の家を
  良く訪ねていました。その方の家の隣に綺麗なバラ園があったのです。最初は気にならなかったの
  ですが、2階から覗きこむと4人の熟年の女性がバラの手入れをしていたのです。友人に「バラを育
  てて商売しているの?」と尋ねると「いや、あの家はかわっていて、あの4人の女性は親戚でもなく
  身寄りの無い人同士が集まって、同じ趣味のバラを育てているんだ。そして誰かが病気になったら
  他の人たちが面倒を看て、最後には土地と建物を市に寄付するそうだ。」・・勿論その頃は若さが故
  に人間の終わりの始末と言う事など考えたことも無かった私ですが、何か潜在意識の中に深く刻ま
  れた場面だったのでしょう。「バラに囲まれた身寄りの無いが気品にあふれるプリンセスたち」こんな
  イメージがこの名を生んだのでした。

   さて1996年この名に恥じない「ホーム」作りが始まったのです。

  勿論この国で建物の建築をすることも全て初めてでしたので建設単価と仕様等の建設レベルを知る
  ために2棟の実験棟を建てて見ましたが、これは大失敗でその後これは取り壊さざるを得なかったの
  です。失敗と言うか何も知らなかったのですから仕方ないのですが早速建設コンサルタントの方に
  相談しながら、しかし建物のデザインは自分で作り本格的な建設がスタートし始めました。この間に
  施設で必要なサービス、1、医療 2、介護 3、食事 4、ハウスキーピング 5、メンテナンス 
  6、通信 7、情報 8、運搬 9、娯楽 そしてこうした事を統括して面倒が見れる管理室というものを
  早急に立ち上げなくてはならず一人で奔走をしていましたが、この時に出会ったのが現在の医療
  介護会社及び学校法人の社長をお願いしているDr. Lilia M. Carlosでした。当時はこのドクターは
  今のアロヨ大統領と同じパンパンガ州ルバオ町の出身で隣町のグアグアで国立病院の副院長をして
  いましたが、日本にも研修目的で東京ジュリアチィック病院などに行った経験を持つジェロントロジスト
  (老齢学)で目的を話すと共感を持っていただき一緒にフィリピンの厚生省(DOT)にも営業許可の
  申請にも行ってもらった時からの言わば私が施設構想や一般的サービス、資金的な方面のマネー
  ジメントを行ったのに対して、このドクターが医療介護面でのマネージメントを行ってもらったとも言え
  る大きな出会いがあったのです。

   さて、このフィリピン厚生省(DOT)に営業許可を取りに行った時の話は今でも忘れません。私は
  日本でこの許可を取るのに厚生省と県の厚生課にどれ程足を運んだかと言う経験からフィリピンでも
  当然色々とうるさい事を言われる覚悟で行ったのですが、完全に肩透かしでした。多分日本も1950
  年代はこうだったのかも知れませんが、有料老人ホームに対する基準が無かったのです。そして
  当社の施設が最初なので出来た時には見学に行くので良く教えてほしいとのことで何だか帰りには
  力が抜けた思いでした。

   こうした経緯の中、医療介護は公務員のドクター(現在は専属)の免許をお借りして在留の日本人
  看護婦を入れて組織を整え、その他にも日本人を採用して「日本人専用」のフィリピン歴史上最初の
  有料老人ホームは当初、入り口ロビー兼食堂(当時は食堂が無かった)と小さな医務室と個室4室
  から1996年暮れにスタートしたのです。

  1996年暮れに一人目のお試しのお客様が入られてからマスコミが騒ぎ出し1997年3月の週刊誌
 アエラに5面記事が出てからは雑誌や新聞に大きく取上げられ、産経新聞では夕刊の一面トップにも
 掲載されました。そして9月NHKのBSではこのホームだけで1時間の特集番組まで制作されました。
 そしてその後も多くの取材を受けて多くのメヂアに登場することになり、お陰様で多くのお客様が門を
 叩いて貰える様になったのです。

  そして1998年お客様からの要望もあり、施設の直ぐ傍に健常者用一戸建て住宅プリンスハウスも
  作る事としました。この健常者一戸建て住宅はお客様が元気なうちは一戸建てで自炊をしながら
  安く過ごして貰い、介護が必要になったら介護施設に移れることを総合的に生涯入居金でパッケージ
  出来るようにしたのです。

  この発想が2004年現在でカブヤオにあるプリンスハウスのみならず、マカチィのコンドミニアムや
  その他の地域における一軒屋まで利用が出来るコンビネーション型生涯賃貸契約まで発展して来
  ましたがこれは後ほどこうなった経緯も含めて説明いたします。

  さて、ローズプリンセスホームのような施設運営は今になれば何の問題も無いのですが、当初の
  問題点はお客様が居ようと居まいと掛かる人件費や他のコストは変わらないと言うことです。
  ですから当初異国であまりイメージの良くないフィリピンでお客様を集めるのは大変な苦労があって、
  思った以上にお客様が集まらず、採算分岐に達するのには時間が掛かり、それも今のようなうまく
  運営するノウハウも無い状態だったので当初の赤字は大きな負担となりました。それでも2000年
  には30名以上のお客様が契約を済ませ入居の準備に慣れない事もあり大あらわという状況でした。

  しかし、此方としても何しろフィリピン初の試みでもありわけが判らず突っ走っている中で、実は密か
  に他の動きがあったのです。勿論来られた方が全て満足されると言うことはありませんので、それ
  なりに改善策を講じていましたがやはりフィリピン的な状況に馴染めないことや言葉の問題点でイラ
  イラして来たお客様に対して入居されていた方の一部や日本人従業員の一部に他に違う施設を立上
  げて移ろうという考えが進んでいたのです。こうした影響を受けて2000年に半数の方が一挙に解約
  をしたのです。このときは2年以内の解約をすると入居金の6割が払い戻される仕組みでしたので、
  一挙に解約したのだから当社がその返却が出来ずに倒産するから早く解約したほうが良いとか様々
  なことを言われました。勿論此方も予期しなかった事もあり、また建設その他の計画も前倒しで行って
  いたのですから大変ではありましたが3000万円近い解約金は全て支払い、むしろ他の残った方々
  に安心感を持って貰ったという状況でした。

  しかし、これは私にとって大きな反省と次への挑戦となったのです。でもここはフィリピンです。従業員
  の箸の上げ下ろしや動作がゆっくりしているという文句までも一々聞いていたら、何故フィリピンは安い
  のかという根源的問題に到達して「なぜフィリピンか」という事になってしまいます。即ちフィリピンで
  安く暮らす、安く介護が受けられるとはこうしたものなのだという基本の考えを日本のせわしない世界
  から来られた方にオリエンテーションをする必要が絶対にあると言うことに気づいたのです。そしてまた、
  それまでは間違えが多かった様々な計算をコンピュータ化してわかり易い明朗なものに代えたり、
  医療体制では日本の保険制度で自分でお金を出して診療を受けたことが無い日本人が日本の医療
  制度のように、やらなくても良い検査まで全て行い、重複する寸前までの多くの薬を投与されることに
  慣れている方々が、健全であるフィリピンの医者が自分の目で看立てて必要最小限の検査と薬を出
  すという当たり前の方法にもかかわらず、その当たり前の考え方や英語も理解できないので勝手に
  「ヤブ医者」と決め付けてしまう現状を打開する方策の研究も重要であることに気づきました。
  またこうした事からコストの見直し作業も行い、2001年には今まで施設の基本管理料(電気・水道・
  掃除・洗濯・補修)が1部屋あたり1万7千ペソ(3万4千円)だったのを1万2千ペソ(2万4千円)まで
  落とす事に成功しました。現在もう少し狭い部屋で8千ペソ(1万6千円)まで落とせないかと模索中
  です。

   そして2000年のこの教訓からの一番大きな変革は「日本人専用」を撤廃したことです。2004年
   現在約70名の方が私どものプログラムに参加して貰っていますが、その20%はフィリピン人及び
   フィリピン系アメリカ人です。これを拡大しヨーロッパ、カナダ、韓国、台湾と施設を変えて出来ない
   かと現在摸作中です。またフィリピンでも将来起こる高齢化の状況を考えると、現在のフィリピンの
   人口状況は1950年代の日本と同じ状況で、日本でもその当時は介護施設は限りなくゼロに近い
   のですが、日本でも10年後の1960年代には800施設が誕生しています。これを考えるとフィリピン
   の社会でも少なくともここ5年の以内には約200施設位はフィリピン人の為に必要かと考えられます。 
   しかしフィリピン社会は「国」主導型の日本方式と違い民間主導型で発展をしている国です。
   そう考えると当社のような企業のフィリピン社会における役割も大きいかのように思われます。
   私が先日フィリピン介護人協会の全国大会で講演を頼まれて行った中でもこの事を強調して、
   「皆様は介護人になって海外で働こうと思われていますが、海外では時給7ドルかもしれないが、
   先進国では7ドルではトマトが7つ買えるだけです。しかしフィリピンでその10分の1の時給でも
   トマトを沢山買える事が出来る。そしてこの数字でも判るようにフィリピン国内でも近々2万人の
   介護人が必要です。」と言っているのですが、これは現状のフィリピン国内における病院内で看護婦
   流出によるベテラン看護婦の不足という深刻な事態を踏まえての発言でした。

   こうした経験を踏まえて介護人やこうした施設管理者の養成も人任せでは出来ないと言うことから
   2002年、学校法人ローズプリンセスホームトレーニングセンターをフィリピン労働技術開発庁
   (TESDA)認可で設立しました。

   さて、ここまでは「介護」を重視する私の歴史ですが、退職者のイメージも退職者の実態も時代は
   大きく変化してきたのです。何度も申しますが現在65歳以上の方が今までの退職者像であり、
   退職者の代表でしたが、次の世代の退職者はまったく違うイメージで捉えないといけない同じ名前の
  「退職者」です。 年金格差がこれだけあると手持ち金が一番ゆとりのある現在65歳以上の「裕福
  退職者」と現在55歳の以下の「貧乏退職者」というまったく違った状況になると考えられます。2000
  年海外退職居住先のトップはハワイでしたが、2005年からは大幅に退職者海外居住先の概念が
  変わると考えています。

  退職者の金融資産が3000万円以上あり、月額20万円近い年金支給がある方と金融資産が
  2000万円以下になって、月額年金の支給が無いのではまったく違います。

  金融資産(家や現金その他)が2000万円で55歳、65歳まで10年間年金支給が無く、65歳に
  年金が支給されても少ないと判っていたら・・・

  そこで「67歳まで金融資産を減らさずに生きる方」というフィリピンライフデザインを真剣に考えなく
  てはならなくなりました。

   もし日本に生活して月額20万円で55歳から65歳まで10年間生活したら、20万円x12ヶ月x10
   年間で2400万円、もし自分が持っている金融資産が2000万円なら既に家は売却せねばなり
   ませんし、それでも400万円の赤字です。更に65歳から75歳まで10年間、今度は家賃も支払う
   事となり、もし10万円の年金を貰えたら(20万円+7万円家賃―10万円年金)x12ヶ月x10年間
   =2040万円が必要となりますが、これは全て赤字です。75歳、今度は介護施設に入る事になり
   ますが、公共の施設には入れずに、今はやりの日本の割安介護施設に入居したとします。2003年
   日本の民間割安介護施設上位5施設の平均入居金は507万円、月額の介護を除く食事を含む
   管理料は19万円です。これに現在は本人負担1割の介護保険料ですが、多分この時には国民
   健康保険料同様に3割負担となっていたら、介護の状況によって違いますが少なくとも5万円以上
   が本人負担です。そして82歳で天命を全うした場合、75歳から82歳まで507万円+(19万円
   管理料+5万円介護実費+3万円医療費その他―10万円年金)x12ヶ月x7年間では1935万円
   の赤字です。55歳から65歳の赤字は400万円、65歳から75歳までの赤字が2040万円、そして
   75歳から82歳までが1935万円の赤字ですから総額の赤字は4375万円に成ってしまいます。
   即ち最初の2000万円+4375万円で6375万円が月額20万円の生活で55歳から82歳までに
   掛かるわけです。しかし日本の平均月額消費は29万円、そしてこの総額には葬儀代や墓地代は
   含まれません。結局日本では55歳の場合5000万円以上の金融資産を持っているか、55歳から
   65歳までは少なくとも月額20万円以上の収入が無いと生きられないと言う実体が浮き彫りになり
   ます。しかし不動産や株が下がっている現状で5000万円以上の資産を持つことが出来る人は稀
   ですし、仕事を探すのも難しい現状では日本での生活そのものが難しいという事になります。
   故に既存で年金を貰っている方の支給を半分に落としてでも、年金支給時期を最低でも60歳に
   固定しないといけないという論議があってもよいのではないでしょうか?

   しかし、既に支給時期が65歳から67歳となった現状で考えると、日本では老後の安全が確保され
   ないという明白な現実が見えてきます。

   では2000万円のお金を持ってきてフィリピンで生活した場合どうなるのでしょうか?

   少なくとも1500万円は元本として残しておかねばなりません。即ち500万円で将来を含めた新しい
   生活を構築しなくてはなりません。それが私どもの基本概念です。私どものコンビネーション型生涯
   賃貸は約350万円の入居金でマニラ郊外なら100u前後の土地に60uの一戸建て、都市部なら
   30u前後のマンションに最初は住み始めて、年老いたら介護施設に無料で移れるシステムです。
   500万からの残りは様々な移住経費や家具そして自動車の購入に利用する余剰金です。
   さて元金の1500万円は私どもの提案するポートフョリオに従って貰えれば、60%(900万円)は
   ドル預金に、40%(600万円)はペソ預金にします。ドル預金900万円のうちの550万円相当額は
   フィリピン余暇退職庁の永住ビザ取得のドル預け金とします。この永住ビザのための預金には
   約1%の金利ですが、他のドル預金には2.5%程度の金利が付き、ペソ預金600万円相当の
   半分の300万円相当を一般のペソ定期預金で8%程度の金利を取り、残りをハイリスクハイリターン
   の街金融(とは言っても信頼の置ける)で12%の年で運用すると、ペソ20%(街金融には掛から
   ない)、ドル7.5%の源泉課税を引いた残りでも月額5万7千円相当の金利収入になります。
   フィリピンでは実際に住むところがあれば十分な生活資金です。たとえ介護施設に入ってもローズ
   プリンセスホームの場合は電気水道その他、掃除洗濯メンテナンス費用は1万2千ペソ(2万4千円)
   日本食3食の一ヶ月は1万1千ペソ(2万2千円)で介護費用は最高でも2万2千ペソ(4万4千円)で
   合計9万円ですが、介護が少なかったり、無かったりすれば4万6千円から6万円で収まります。
   施設でも収まるのですから、自炊すれば十分に夫婦二人でもやって行ける金額が5万7千円なの
   です。そして自動車に乗りたいとか、少しは旅などをして楽しみたいという方には、現地採用で月額
   3万円から5万円の仕事ですがお探しします。これで十分に生活が成り立ちます。

   そうすれば1500万円の元金に手を付けずに65歳まで過ごせる可能性が見えてきます。

    こんな様々な経験と努力で施設サービスは、勿論まだまだ完成には程遠いのですが現在は
   グループを「ローズプリンセス・コンセプト(概念)」という旗印に医療法人、学校法人、施設運営法人、
   2つの不動産施設所有法人、社員食堂兼フィリピン食の法人、託児所法人、そして最近、医療法人
   の中に、歯科、泌尿器科、内科、眼科、婦人科、心臓外科等の医師に参画してもらい、レントゲン
   管理法人を作り、市場開発としてコンピュータソフト(WEBサイト)の法人等を設立しました。そして
   外注先としては日本食提供業者、ハウスキーピング業者、人材派遣会社、レンタカー会社等に協力
   をしてもらい、施設提携先(フランチャイズ先)としてはスービック、タガイタイ、バタンガスがあり提携
   先施設利用可能数は約300室を数えるまでに至りました。また現在様々なデベロッパーからの新規 
   の提携先としての申し出も後を絶たない状況と新規の開発計画を含めると約4000戸以上の施設が    近々にも確保できる状態まで見えて来ました。しかしこの事業がフィリピンの新しい産業として離陸
   するために後必要なことはマーケチィング及び実際に人が移動するシステム(ロジスチイックス)です。

   でもご存知のようにフィリピンのイメージは地に落ちています。また空港の状況はアジアで最悪と
   いって過言ではありません。空港からバスや電車が無いのはこの空港しか無いのではないでしょう
   か?故に異状に高いタクシーを利用するか、それも実態は降りる時にまた高いチップを運転手から
   要求されたり、空港ガードに「千円」チップと言われたりと頭の痛いところです。故にタクシーを使わ
   ないで一人のお客を迎えるとすれば運転手とアシスタントと車両を待ち時間や交通混雑を考えて
   半日以上拘束しなくてはならず、そのコストは成田空港のあの高いバス代以上になってしまいます。
   ここら辺からフィリピンは本当に外国人退職者ウエルカムなのかという疑問が生じてしまう現状を
   どう打開するのか? 本当に問題は山積していて、そこら辺を一挙に解決するシステムとサービス
   が必要です。

   こうした事が出来る会社の設置を現在喪作中です。全てが模索中の状態ですが、しかし日本では
   幾ら模索してもコストが高いと言う限界から模索が出来ない状況と違い、模索の余地があると解釈
   すれば「またやる気が起こる」不思議な国フィリピンです。